国際法哲学会2005年グラナダ大会における研究報告
橋本努200506
昨年の国際メンガー・シンポジウムにつづいて、今度は「国際法哲学会」において研究発表をするという機会に恵まれた。大会の正式名称は、XXII World Congress of Philosophy of Law and Social Philosophy。アルハンブラ宮殿で有名なスペインのグラナダにて、2005年5月24日から29日にかけて開催された大会である。大会開催の1年前、森村進先生が「リバタリアニズム」というテーマで本大会における「ワークショップ」を企画するというので、私もその企画に参加を申し出たのであった。
当日の「リバタリアニズム」ワークショップの日程は、以下の通りである。
Prof. Morimura
ROOM 29, Exhibition and
Wednesday, May 25th
16:50-17:10 Douglas Rasmussen (St. John’s University, New York City, USA) and Douglas Den Uyl (Liberty Fund, Indianapolis, USA) Atomism.
18:20-18:40 Daniel Shapiro (
スペインにおける国際学会だからであろうか、昼休みが15:30まであり、私の発表は夜の7時から行われた。発表は20分、そして質疑応答が20分。予想外にも私は質問者の質問からかなりの刺激を得ることができて、実りの多い報告経験になったように思う。質問者の皆様には、あらためて感謝したい。個人的には、グラナダにまで来て嶋津格先生や井上達夫先生と英語で議論を交わすことになるとは、まったく予想していなかった。両者の鋭い質問に対しても、これから拙論をバージョンアップするかたちで応じたい。
今回の私の報告は、バーリンその他の政治思想家たちがこれまで指摘しなかった「消極的自由のパラドクス」について、とりわけアメリカのイラク攻撃を例に挙げて説明を試みたものである。国連の査察を無視したアメリカのイラク攻撃は、J.シュクラーのいう「恐怖からの自由」の名の下に正当化されているように思われるが、しかしその正当化論の論理は、「消極的自由」の概念を濫用している。バーリンは積極的自由の概念が社会主義や全体主義の体制を擁護するという過程を目の当たりにしたのであったが、現在私たちが直面しているのは、「消極的自由」概念の濫用ではないだろうか。こうした概念濫用の現象を防ぐためには、消極的自由の概念を再規定しなければならない。これが本報告において私が提起した問題であった。以下に、私の報告要旨を載せておきたい。
Summary
The impact of Isaiah
On the other hand, we are now
facing at the other pair of paradoxes: a paradox of negative freedom. After the
terrorist attack on
Preemptive attack justified
through the idea of “freedom of fear,” is a good example. A school voucher
system with the idea of “freedom as opportunity” would be another example. A
policy which promotes market competition or a policy of minimum income
indemnification would also be justified in terms of the concept of positive
freedom: The former is justified under the idea of “freedom as discovery” and
the latter is justified under the idea of “freedom as basic capability.”
Through these categorical clarifications, we would be able to restrict the
inflationary use of the concept of negative freedom.
以上の報告の内容については、これからさらに原理的な考察を加えていこうと思う。
ところで大会報告の前日、私は滞在ホテル近くの広場でアイスクリームを食べながら人々の往来を眺めていたのであるが、すると森村先生が道に迷ったように私の前を通りすぎていくので、私はおもむろに声をかけて、結局その夜は森村先生と食事をした。また大会当日の夜は、日本法哲学会の人たちと遅くまで飲みつづけたことも、豊かな経験として印象に残っている。なお本大会のワークショップ「リバタリアニズム」については、森村進先生が『創文』にエッセイを寄稿している。こちらも合わせて参照していただけると幸いである。
私にとってスペイン訪問は、実に17年ぶりであった。しかしグラナダは初めての滞在で、とりわけアルハンブラ宮殿の展望には、凄惨な歴史が美的に昇華されていくという、なんともいえない物悲しさを感じた。イスラム文化とキリスト教文化の耽美的な融合可能性というものが、そこにあった。